「農のかけ算」農×経験

2024.03.28

コラム「農のかけ算」の初回ということで今回は自己紹介も兼ねて「経験」というテーマで書いていく。

今となっては元農家と言わざるを得ないが、農家になるには自分でも特殊と言える経歴をもち、波瀾が万丈する家族の元に育って今に至る。

「特殊」や「波瀾万丈」という言葉で表すのは簡単だが、その全てが今の僕を創った経験だと思うと感慨深いものがある。

僕はホリエモンやお茶で有名な福岡県八女市生まれで、物心ついた頃にはスーパーや飲食店をいくつも経営する裕福な家庭の三男として生まれ育った。

そして、小学3年生の夏。

うろ覚えだが、僕には何の前触れもなく家族五人で車一台、夜逃げすることになる。父の事業が破綻し、4億5千万の負債をかかえ逃げることになったのだ。行き先は滋賀県守山市。福岡では新築の大きな家に住んでいたのだが、行き着いた先は四畳二間のクソみたいなアパートだった。ただ、両親が命懸けで頑張ったのだろう。そんな中でも子供として貧しいと感じた記憶はかけらもない。あえて言うならば、溜まっていたお年玉は生活費に消え、小3ながら新聞配達をし、小5の時には設備業を始めた父親と共に工事現場に出て、高校卒業まで夏休みなどの長期休みの大部分は工事現場に出ていた。この時に仕事には段取りがあり、効率的に行うものだということを父親や他の職人から学んだ。

(三人兄弟の末っ子 真ん中が著者)

高校卒業時には、父親は滋賀でトップクラスの空調設備会社に成長させていた。あまり勉強が好きでなかった僕を入社させようと父に説得されたが、それを無視してバンドをやるという名目で東京、八王子の大学生の兄の家へ転がり込み、フリーターとして生活を始めた。

歌が上手い程度の自分が音楽の世界で生きていけるほど甘くはなかったが、日本中から集まった大学生たちと絡むのは楽しく、初めて友達ができた感覚だった。

世界を旅するカメラマン、買ったばかりギターを叩き割るバンドマン、都内でイベント開催するDJ、謎の絵を描く画家など同年代で可能性を爆発させている彼らといると自分にも可能性があると思わせてくれた。

そんな中で出会ったのが国際支援だった。ちょうど二十歳の時に起こった911ニューヨーク同時多発テロ、友達の大学に忍び込んで受けた授業が「僕が世界を変えていく」と素敵な勘違いをさせてくれた。すぐに必要な情報集めに動き出した。社会経験が必要なので興味のあった介護ヘルパーの資格をとり、就職。2年ほどで父親の設備屋が人手不足ということで慣れた現場で一年。遊びながら貯めた150万程度を握りしめてロンドンに留学した。

とはいえ、両親は支援の世界に行くのは反対だった。学歴もない中で生活の安定も保証されないジャンルかつ、連絡も取りにくい海外に行くというのは確かに親戚を見渡してもあまりいない家柄だった。「そんな仕事じゃ結婚もできないし、できても子供が貧しい思いをするんだぞ」と説得力があるのかないのかわからない父の言葉に「だったら結婚はしない」と言い残し、イギリスに向かった。 イギリスは一言でいうと最高にハードで、楽しかった。当時1ポンド260円ほどでタバコ一箱が2000円を超える物価。150万円では半年間の生活も危ぶまれたのですぐに働くことができたローカルの日本食レストランでバイトを始めた。担当は天ぷら。言われた通りにやってるだけなのに客から「職人変わった?」と評価され、何がどうなったのか数ヶ月でロンドンのど真ん中、ピカデリーサーカスにある三越レストランにスカウトされた。他の学生バイトからは日本から来た天ぷら職人だと思われていたようだ。

(イギリス時代 右が著者)

現地での語学学校の授業はとても幼稚で若くプライドの高かった自分はロン毛にグラサン、革ジャンと破れたジーンズにブーツを履いて誰も話しかけづらい雰囲気を作り出し、半年ほどで行かなくなった。ただ、留学の目的はもちろん英語。生活はできたが天ぷらを揚げに来たわけではない。ということで、レストランを辞め、多国籍の方が働いてるケータリング会社、簡単にいうとテキ屋に入り、イングランド中の音楽フェスでオリエンタルフードを作って売りまくった。

この仕事が最高だったのは世界的アーティストが出まくるフェスにスタッフとして入り、暇な時はライブを見まくれたこと。引退間近であったローリングストーンズのライブも目の当たりにし、10メートルほどの距離で見たミックジャガーの腰振りは今も目に焼きついている。

ここでは日本人が少しとタイ人を中心にイギリスやオーストラリア、キルギスなどの出身者で多国籍だったのでもちろん英語が共通言語。勉強となると苦手だが、仕事となると責任感のせいか、いやでも頑張れた。

フェスが減る冬場は仲が良かったキルギス人と何でも屋を開き、車の整備から引越し、家の改修工事まで何でもやり、粗く稼いだ。2年のイギリス生活はほとんど仕事と遊びだったが、帰る頃には150万円ほど手元にあった。その頃には英語もさほど抵抗ないくらいにはなっていたが、目標は英語ではなく、国際支援の現場で働くこと。その先が決まってなかったことで自暴自棄になったりしたが友達の励ましもあり、イギリスから国際支援の世界で活躍してそうな世界中の人にDMを送りまくった。

そこで紹介されたのがカンボジアだ。

一度日本に帰国し、体裁を整えて一路カンボジアへと向かい、とあるNGOにインターンとして受け入れてもらった。予定は三ヶ月、まずは自分が途上国で生きていけるかが課題だったが、それは問題にもならなかった。インターンとして農村、スラム、孤児院へ赴き、いわゆる貧しい子供達と戯れ、必要な支援を行い、スタディツアーのアテンド側として大学生に尊敬されるなど、こんな幸せで最高な生き方が一生続けばと思っていた。でも実際は三ヶ月も経てば本質が見え始め、カンボジアや支援の闇が自分を絶望させることが幾度もあった。

(カンボジアNGO時代)

最終的には3年ほどカンボジアで支援に携わり、自分なりにもがいてもみたが、あからさまな自分の力不足に嘆いた。伝える力もお金を集める力も何かを生み出す力もなく、このままじゃ僕はカンボジアに何もできない、と鬱になり強制帰国を余儀なくされた。

それと同時期に父親の設備会社の経営が厳しくなり、山浦家2度目の倒産。鬱どころではなくなり、さまざま駆けずり回ったすえに収入のよかった大型ドライバーとして朝に夕に働くことになった。ドライバーを否定する気はないが、僕には退屈極まりない仕事だった。このまま借金返しながら人生が終わるのかと時間が過ぎていく恐怖は苦しくて仕方がなかった。この時31歳、帰国した嫁と無理やり結婚し、子供が生まれたばかりだった。

そんな時に声をかけてもらったのが農業だった。海外で農業事業を進めるベンチャーを紹介され、初めは海外という言葉にしか興味がなかった。しかし、いざ腹を決めてやってみるととにかく畑作業が楽しく、体力的なキツさはあるものの、その面白さに惹かれた。そのベンチャーは一年で退職し、長野の大きな法人に入り農業を続け、縁あって4Hクラブ活動にも参加した。ここでそれまで足元や社内という視野でしか見れなかった農業が日本、世界に広がった。そうなると現場よりも業界の話が面白くなり、またここで素敵な勘違いをしてしまった。「農業界ならロックスターになれるかも」と。 ここ5.6年は農系スタートアップが乱立しているが、その当時は何で農業界はこんなに課題があるのに放置してんの?ということが山ほどあり、解決策なんかいくらでもあるだろうになぜ誰もやらないんだろうと不思議に思っていた。単にそれを形にする人やそこに投資できる人が少なかっただけだが、そこにはチャンスしかないとさえ感じた。 その後の動きとしては農家発の野外フェス、農業に特化した海外スタディツアー「農スタ」や加工品づくり、キッチンカー事業。また4Hクラブではありがたいことに会長までさせてもらった。

(新規就農時)

省略はしつつも、ここまで語る中で自身の経験を農業に活かせたことはほぼ全てと言える。

子供の頃から仕事していたことは生産効率や段取りの基礎として、バンドの経験は野外フェスでの地域おこし、英語は外国人実習生とのコミュニケーション、テキ屋はキッチンカー、何でも屋は百姓、カンボジアは農家に特化したツアーになり、ドライバーは言わずもがな。

人は誰もが子供時代があり、青春を生き、大人として自らの選択を経て今に至るはずだ。その経験は特別ではないと思う人のほうが多いかもしれないがそれは主観であり、地方の魅力に地元の人が気付けないようなもの。考え方を変えれば、魅力のなさや平凡さでさえ価値になる。 改めて自分の人生経験や趣味、好きなことを顧みてみよう。そこに農業と無関係なものは絶対にない。無関係だと思えれば思えるほどそこには新しい農業の形やビジネスチャンスがあるように思えてならない。