「農のかけ算」農×教育

2024.05.17

国際支援の現場を経て帰国時、日本でどんな仕事をして生きていこうかと悩んでいたときに、ある知り合いとの話し合いの中で教育の現場に身を置こうと真剣に考えたことがある。学校等の教育者という立場ではなく、キャリア教育業界で日本の未来を担う若者に対して価値ある人生へと導いていく会社をやりたいと思ったのだ。今考えると「やりたいことをやる」以外の経験のない自分にはビジネスとしての成功の余地はなかった気がするので農業の道に進んでよかったと思うが、親となり様々な経験を経たうえでも教育的視点を大切にしたいという思いは変わってはいない。

その思いを農業界で一つの形にしたのが、今でも続けている「農業に特化した海外スタディツアー『農スタ』」である。これはただ農業系の学生や若手農家を海外に連れていき、農業視察をしようというものではない。農スタで行くのはカンボジアであり、語弊はあるがそこに学ぶべき技術はほとんどない。私があえて途上国と言われる国に連れて行くのは、客である若い彼らに「未知」を体験してほしかったからだ。今後の国内農業の30年を担う彼らに視野を広げ、かつ自分の可能性を広げてほしいという思いがある。逆に言えばそうすることでしか先細っていく日本経済と社会の中で生き残っていくのは難しいとさえ考えている。 そして、生き残るためには個性を持った自分にしかできない農業をやっていくべきだ。そのためには視野を広げることが最重要だと考えており、視野を広げるのに最速かつ、最適なのが未知の経験であり、最も手っ取り早いのが異文化に触れる海外、それも日本とは全く違う文化や習慣、景色を持った国に行くことだと確信しているからだ。

実際に参加者、特に感受性の高い学生等の若者への影響は大きく、農業と国際支援というテーマで動き出したり、休学しカンボジアに留学したり、海外企業で働きだすなど様々なうれしい報告を受けている。もちろん、目に見える形での影響がなさそう参加者もいるが、彼らの人生に爪痕が残っているのは間違いないと自負している。

農スタ 地雷原視察

農業界に10年身を置き、会社内で後輩を育成する立場をとったこともあるが、私が特に農業の現場で大切だと思ったことは「違和感に気付けるか」だった。農業の現場は、えてしてルーティーンワークになりがちである。特に法人のような役割分担で作業を分担していく中では作業をすることに集中し、極端な言い方をすれば身体さえ動かしていれば、何も考えずにできることも多い。そんな中でその作業を「仕事」にするべきものはその作業から何を読み取るかであったといえる。当たり前の風景の中にある「違和感」に気付き、それを社内や管理者に共有できるかだ。

これは農業に関わることだけではないが、必ずトラブルや問題発生する前には現場から何かしらのサインが出ている。それは畑の様子だったり、パートさんの表情であったり、天気かもしれない。とにかく五感の中で何かしらの違和感に気付けるかでその後の成り行きが変わってくるのだ。

ただ、これがなかなか伝えられない。実際に気付いた違和感を伝えることはできるが、それは一つの事象でしかなく違和感はいろんな形でやってくるのだ。おそらくこういったものを昔ながらの農家や職人と言われる方々が経験に基づいているもので共有はできないといっているのだろう。しかし、それではどれだけたっても後進は育たない。この課題を解決するにはすべての違和感をデータ化、数値化するしかないのだが古き良き時代の方々はなかなかそう考えられないのだろう。

私の教育の持論として、「教育とは自分以上の存在に成長させる」ことだと考えている。これについては勘違いされがちなのだが、決して私の美しい精神性がそうさせるのではない。単純にそのほうが楽になるからであり、それを手放すことができることにより、私自身が次のフェーズへ移れるようになるからだ。優越感などの自己優位性を大切にする方々は小さなお山の大将でよいのだろうが、本質的な組織や社会の価値、未来を考えるのであれば、この考えは老害以外の何物でもないだろう。

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話を農業×教育に戻す。 個人的には農業ほど、他産業に比べキャリア教育に向いている職種はないと思っている。ご存じのとおり、農家は百姓と言われる。百の姓(仕事)ができて初めて百姓と誰かに教えてもらったが本来は朝廷からもらった百の姓(名前や生業)の意味で元は庶民すべてを指す言葉だったようだが、個人的には「百の仕事ができて百姓」という意味が気に入っている。 言葉の由来については諸説あるため、ここで精査する気はないが、その名のとおり百姓という仕事は多岐にわたっている。現在の一般的なイメージとしては農家の仕事は主に栽培・収穫・出荷が主だとみられがちだが、それはあくまでメインであり、実は様々職種が農業という仕事に詰まっているのだ。

ざっと一例をあげてみると

栽培、収穫、出荷、販売、物流、人事、経営、ブランディング、整備、営業、土地関連、土木、建設、設備、資料作成、組織活動、開発など。これだけでもざっと15以上あるがこれもさらに細分化できる。 栽培=施肥、農薬などの科学分野、重機作業、管理業務 収穫=機械オペレーター、人の配置などのマネジメント

出荷=袋詰め、仕分け、輸送 販売=品出し、サービス、EC

物流=配達、委託、農協 人事=リクルート、マネジメント、教育、外国人 経営=経理、労務、総務、ビジョン

ブランディング=各種デザイン、SNS、プロモーション

整備=車両、農業機械

営業=マーケティング、広告

土地=不動産、行政

土木=灌漑、開拓

建設=ハウス、倉庫

設備=配管、電気 資料作成=補助金、助成金申請、契約関連 組織活動=4Hクラブ、法人協会、農業士

開発=品種改良、加工品、アグリビジネス などなど、挙げればきりはない。これに加え、最近はIOTやAIなどによるロボットやドローン操縦士など新しい技術も入ってくれだろう。

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これがキャリア教育とどんな関係があるのかというと、これだけ様々な業務を扱うことが農業というのであれば、この一通りの作業を一度体験することで、どれが自分に向いていてどの仕事はやりたくないなどの適正を見ることに使えるのではと考えているのだ。

例えば自分を例に挙げると、農業法人に入ることで上記のほぼすべてを経験することができた。そういった中である程度選択することができ、そのうえでどれが自分にとって武器になるのかを理解することができたのだ。 もちろん、私が経験した10年を誰しも経験することはできないだろうし、そもそもキャリアを考えるうえで10年の歳月をかけることはナンセンスだろう。そこは柔軟に考え、よい意味で大雑把に小学校高学年の間から中学生の間に経験出来ればよいだろう。 例えば、農業という授業を1年間中学校の科目に入れてみる。栽培から販売までやってみるだけでも様々な適性を見ることができるだろう。計画を練り作業管理をする人、単純なルーティーンワークを好む人、機械作業を好む人、販売に使うポップを描ける人、対面で販売を好む人など大まかに分けることはできる。それだけでも経営やリーダー向き、単純作業、エンジニア体質、クリエイティブ、サービス業など大雑把ではあるが、適性を見ることができるはずだ。これで職業が決まるわけではないが、キャリアとはそれの繰り返しの中で喜びや不快が明確になっていくことだろうと理解している。

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それは決してお金や出世のためではなく、より充実し後悔のないキャリア形成のためである。私は履歴書に本当のことを書いたことがない。それは単純に一般的な職歴の欄では書ききれないほど、様々な経験をしていてまともに書くのが面倒だからだし、もはや覚えていないからだ。昔はそれがコンプレックスだったが、経験を重ね、できることが増えるうちに自分のマルチさは武器になることに気付いた。

上記に書いてきたこととは矛盾するが、キャリアなんて結果論で十分だと考えている。ただし、私はどんな仕事であれ手を抜いたことはない。すべて本気でやってきたからこそマルチさが武器となったと自覚している。

そういう意味では、私は一般的な農家より百姓に近い生き物であり、今もまた百姓に近づき続けている。